どんな世界で生きるか

いろんな人がいて、いろんな風に世界をとらえて生きています。
私が最近ずっーと考え続けていることは、自分も含めて“その人がどんな世界で生きているか”ということです。
思い癖、思い込み、ともいえるかもしれません。
まさしくインチャというフィルターを通して作り出すその人だけのワンダーランド!
 
後悔の世界で生きている人、
競争の世界で生きている人、
悲嘆の世界に生きている人、
諦観の世界で生きている人、
自己憐憫の世界に生きている人、
自己否定の世界に生きている人、
攻撃の世界に生きている人もいると思います。
 
はたまた、、
受容の世界に生きている人、
感謝の世界で生きている人、
利他の世界に生きている人
など暖色系の世界に生きている人もいます。
同じような体験をしても、
同じ話を聞いていても、
住んでいる世界が違うととらえ方が全く違っていて、
どう受け止めるかによって、
こんなにも受け取るものが違うんだと驚くことがあります。
 
よく私の恩師が言っていた “人は聞きたいように聞く” というのが分かる気がする今日この頃。
日々唱える般若心経がじわじわと自分の中にしみ込んできて、、
繰り返し語られる“空(くう)”ということを頭ではなく心で分かり(始めた、と言いたいですが、、)たいと思っているからなのかもしれません。
受想行識全てが実体のないもの=“空(くう)”であるということ。
実体がないがゆえに、
“あるように見えているもの”=事象や目の前にで起こる出来事は、その人の心が如実に反映されているということ。
そして、どうやらその世界は何も意識しないままでいると
[←ココがたぶん重要!]
色濃くなっていく傾向が強いようだ、と感じています。
 
翻って自分自身のことを考えると、私はたぶん自己卑下の世界に生きていたので、“わが魂を痛ましむる“私自身であったと思います。
そんな気付きを得て以来、周囲を見渡してみると、自分を自分で押さえつけて、型にはめて、小さく生きている人がなんと多いことか!!
自分で作った見えない檻に囚われることなく、軽やかに生きて行きたいと思います。
般若心経現代語訳、ご存知でしょうか。
寅子先生の訳もあるのに怒られるかもしれませんが、
私は結構好きですYah~!()
 
———————————————
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ

もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。


見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。
味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。


揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ? 

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』
心配すんな。大丈夫だ。

 
“全ては此処にある”